14地区

読書ブログ化しそうな気配

うさぎとマツコの往復書簡 感想

また最近ますます本を読むようになり、いろいろ思うことも拡がってきたので、また書いていきたい。

今日は昼に起きて引きこもり、漫画3冊とエッセイ1本を読み、映画を1本観た。しあわせだ。

 

さてそのエッセイについて。「うさぎとマツコの往復書簡」。シリーズとして数冊出ている模様ですが、その1冊目。

 

私はマツコ・デラックスが大好きです。今はテレビ環境から離れており番組は見ていませんが、以前は月曜から夜更かしと怒り新党はほぼ毎週見ていた。

でも自分がなぜそんなにマツコが好きなのかよく分からなくて、1か月ほど前から好きな理由を探そうと気づけば数時間動画を見ている、ということも何日かあったほど。(その理由には未到達)

中村うさぎは、これまで書店に並ぶ本をちら見してもピンと来ず、本書が初対面だった。

 

表面上のお題は複数ありつつも、根底のテーマは、特異な性の在り様に根差す過剰な自意識とどう折り合い、それぞれの老い・金(世間的評価)を生きるか?で、苦しみながら真剣に人生と向き合っている様を読者に見せてくれているもの。

本を読んだ私の感想は、「この人たちはなぜ、主観というエデンの園に安住する努力を放棄してまで、どこにもいない本当の自分を探したり、作り出そうとする茨の道を進まなければいけないのだろうか?」である。疑問形。

両者とも、人からわかりやすい形で愛されたい、社会の一定数に求められたい(魂を切り売りすることで飯が食えるレベルで)という目的は世間一般人と同じで、しかしお二人のようなある種異形の人間が必要とされるためには、人よりも過剰に膨らんだ自意識を極限まで客観化しなければ面白くなく、世間にウケない(飯にならない)。だから主観の世界の主人であることで生まれる充足感を棄て、どこまでも自分の魂の在り処を見つめて、切り売りしなくてはならない。また、そのようにしか生きられないというのが二人の共通認識のよう。

ようだが、そこがなぜ「だから」と繋がってくるのかよくわからなかった。

確かに客観的に自分の成り立ちを見つめることと主観的世界に浸って幸せを感じることは相反することのように見えるけれども、決して同時に成立しないものではないと、私は思う。エッセイのなかでも語られている通り、「本当の自分はひとりしかいない、でもだからこそ辛い思いの果てにおぼろげに見えてくる自分を信じられる」と言いつつ、その果てにも幸せも感じられないのなら、そうまでして飯の種をそこにこだわる必要があるの?と思ってしまう。主観の世界の幸せの自己欺瞞性にどうしても目をつぶれなくなるほど自分を突き詰めてしまうと、そういうことになるのかなあ。

私なら、別に本当の自分なんていらないし、自分は何者なのか?みたいな問いには一生答えられなくても構わないので、自己欺瞞の影を感じながらも主観的世界に浸ることでひとまず現状を肯定し、そのうえでより自分にfitする生き方の道しるべとするための手段として、自分が求めているものを自分に問う作業(穏やかな自分探し)も平行してやっていく、と思う。ブログは後者の作業の一環だったりする。

マツコは、それを自分にとっては恥ずかしくてみっともないことだ、と言っている。なぜそう思うのか?きっとお二人には、私には到底思いも及ばない、深い業があるのだろうなあ、というのが今の感想。ただ、お二人の人生に真摯に向き合う姿には本当に心打たれるし、読む私も心が痛く、引き込まれるように一気に読破した。

 

枝葉の部分でもひっかかるところが何点かあった。

 

○「結婚して子供を産むことで、人生の欠落感、孤独感を埋めようとした」

はっきり言うと、私は人生の暇つぶしとして子供が欲しいと思っている節がある。子供を持てたら愛情を持ってとことん向き合うことはできそうだなと思っているけれど、これは産んだ後の話で、作る動機の部分では、どこまでもエゴイスティックな理由しかない。子供がいれば20年間は生きる理由ができそうだもの。ちなみにこの話に旦那はいらない。

むしろ、エゴでない理由で子供を持ちたいと思っている人の話を聞いてみたい。

 

○「スカートを履いたオヤジ」

完全に私のことだ、と思った。男社会の論理を内面化することで居場所を確保しようとして、ある程度成功したものの、今後どうしても同じ論理では乗り越えられそうもないイベント(出産・家庭における妻の役割との両立)を前に生き方を迷っている私です。まあ、そもそもまだ結婚の予定ありませんけど。。

 

 

エッセイの最後の方でだいぶうさぎさんがお疲れのようで、心配になってググってみたけれど、自殺未遂なんて記事が出てて悲しくなった。