14地区

読書ブログ化しそうな気配

健全な肉体に狂気は宿る 再読

数日前にマツコとうさぎの自分探しにかかわる重いエッセイを読んでいた反動で、帯にでっかく「自分探し禁止!」と書いてある本を読みなおした。あーすっきりした。前回読んだのも、自意識が過剰に膨らんで生活に支障を来していた頃で、結構読んで気が楽になったような覚えが。自分とは何か?なんて考えるのが無駄なことは理屈じゃわかっているけれどもなかなかやめられない、という場合に薬効もありそう。

きっちりテーマを分けているというよりは、対談の展開するままに任せてある感じがするので、あらすじが非常に書きづらいけれども、とにかく心地よく過ごすためのヒントがいっぱいある(すごくざっくり)

特に私に面白かったのは以下2点。

1)虫食いスキームの話

自分の書いたものや読んでいるもので意味の分からない部分や言葉があっても、それをスルーしてわかる部分だけを取り込み、分からない部分があることが気持ち悪くない態度のこと。完全に私のことでした。私を取り囲む世界そのものがよくわからないことだらけなので、それをひとつひとつわかるようにしようと努力するのは無謀だと思ってしまうんだな。というか逆に、まっとうに自分の周囲の世界を自分なりに正確に把握している感じをもち、そしてその感覚を客観的に見ても多くの人が同意するであろう世界観に近づける努力を実践している人を目にすると、ほんとすごいなーと思う。これは、自分に自信があって、世界を把握する自分の目を信頼しているからこそできるのではないかな、と思う。あと好奇心が衰えていないというのも大事。虫食いスキームのままでいると実際に仕事や生活に支障を来したりすると実感しているので、ちょっとは手間を惜しまず虫食いを潰していくようがんばりたい。

2)過去は可変的である。

未来をありうべきものでなくあるべきものと固定したとき、とても生きづらくなるんだなというのは学生の頃実感として持っていた(主に模試の点数で・・)。未来をあるべきものにしてしまうと、そうでない未来が到来したときに自分が所有していた未来像を失ったような気がして、激しく気を落としたり失望したり必要以上に自分を責めたりしてしまいがちじゃないでしょうか。本当は手にしてもいなかったのだから失くしたはずはないのに。でも過去も可変的だというのは実感がなかったし、あまり考えてこなかったことだと本を読んで気が付いた。確かに、過去の意味づけが変わるというのはあるよね。例えば恋愛で、別れた直後はあんな奴もう一生顔も見たくない!なんて思っていても、他事で忙しく人生を送った後数年経ってふと思い出すと良い経験をさせてもらったなあ、と懐かしくなるみたいな。本書で言われている過去が可変的だというのは、それとはもう少し角度が違って意味が広いと思うが・・うーん、まだ腹に落ちていないのでうまく言葉にできぬ。自分を空間的にとらえるのでなく、絶えず時空を移動し変化するものとしてとらえる、というの心がけたらもっと上手くやれそう。

 

うさぎとマツコの往復書簡 感想

また最近ますます本を読むようになり、いろいろ思うことも拡がってきたので、また書いていきたい。

今日は昼に起きて引きこもり、漫画3冊とエッセイ1本を読み、映画を1本観た。しあわせだ。

 

さてそのエッセイについて。「うさぎとマツコの往復書簡」。シリーズとして数冊出ている模様ですが、その1冊目。

 

私はマツコ・デラックスが大好きです。今はテレビ環境から離れており番組は見ていませんが、以前は月曜から夜更かしと怒り新党はほぼ毎週見ていた。

でも自分がなぜそんなにマツコが好きなのかよく分からなくて、1か月ほど前から好きな理由を探そうと気づけば数時間動画を見ている、ということも何日かあったほど。(その理由には未到達)

中村うさぎは、これまで書店に並ぶ本をちら見してもピンと来ず、本書が初対面だった。

 

表面上のお題は複数ありつつも、根底のテーマは、特異な性の在り様に根差す過剰な自意識とどう折り合い、それぞれの老い・金(世間的評価)を生きるか?で、苦しみながら真剣に人生と向き合っている様を読者に見せてくれているもの。

本を読んだ私の感想は、「この人たちはなぜ、主観というエデンの園に安住する努力を放棄してまで、どこにもいない本当の自分を探したり、作り出そうとする茨の道を進まなければいけないのだろうか?」である。疑問形。

両者とも、人からわかりやすい形で愛されたい、社会の一定数に求められたい(魂を切り売りすることで飯が食えるレベルで)という目的は世間一般人と同じで、しかしお二人のようなある種異形の人間が必要とされるためには、人よりも過剰に膨らんだ自意識を極限まで客観化しなければ面白くなく、世間にウケない(飯にならない)。だから主観の世界の主人であることで生まれる充足感を棄て、どこまでも自分の魂の在り処を見つめて、切り売りしなくてはならない。また、そのようにしか生きられないというのが二人の共通認識のよう。

ようだが、そこがなぜ「だから」と繋がってくるのかよくわからなかった。

確かに客観的に自分の成り立ちを見つめることと主観的世界に浸って幸せを感じることは相反することのように見えるけれども、決して同時に成立しないものではないと、私は思う。エッセイのなかでも語られている通り、「本当の自分はひとりしかいない、でもだからこそ辛い思いの果てにおぼろげに見えてくる自分を信じられる」と言いつつ、その果てにも幸せも感じられないのなら、そうまでして飯の種をそこにこだわる必要があるの?と思ってしまう。主観の世界の幸せの自己欺瞞性にどうしても目をつぶれなくなるほど自分を突き詰めてしまうと、そういうことになるのかなあ。

私なら、別に本当の自分なんていらないし、自分は何者なのか?みたいな問いには一生答えられなくても構わないので、自己欺瞞の影を感じながらも主観的世界に浸ることでひとまず現状を肯定し、そのうえでより自分にfitする生き方の道しるべとするための手段として、自分が求めているものを自分に問う作業(穏やかな自分探し)も平行してやっていく、と思う。ブログは後者の作業の一環だったりする。

マツコは、それを自分にとっては恥ずかしくてみっともないことだ、と言っている。なぜそう思うのか?きっとお二人には、私には到底思いも及ばない、深い業があるのだろうなあ、というのが今の感想。ただ、お二人の人生に真摯に向き合う姿には本当に心打たれるし、読む私も心が痛く、引き込まれるように一気に読破した。

 

枝葉の部分でもひっかかるところが何点かあった。

 

○「結婚して子供を産むことで、人生の欠落感、孤独感を埋めようとした」

はっきり言うと、私は人生の暇つぶしとして子供が欲しいと思っている節がある。子供を持てたら愛情を持ってとことん向き合うことはできそうだなと思っているけれど、これは産んだ後の話で、作る動機の部分では、どこまでもエゴイスティックな理由しかない。子供がいれば20年間は生きる理由ができそうだもの。ちなみにこの話に旦那はいらない。

むしろ、エゴでない理由で子供を持ちたいと思っている人の話を聞いてみたい。

 

○「スカートを履いたオヤジ」

完全に私のことだ、と思った。男社会の論理を内面化することで居場所を確保しようとして、ある程度成功したものの、今後どうしても同じ論理では乗り越えられそうもないイベント(出産・家庭における妻の役割との両立)を前に生き方を迷っている私です。まあ、そもそもまだ結婚の予定ありませんけど。。

 

 

エッセイの最後の方でだいぶうさぎさんがお疲れのようで、心配になってググってみたけれど、自殺未遂なんて記事が出てて悲しくなった。

やっと「夜と霧」を読んだ

これまでの人生で3回親しい人におすすめされましたが、どう考えてもタイトルからして怖いし、唯でさえストレス社会に生きている上にわざわざ気持ちが沈むこと間違いなしの経験を選ぶ勇気がなかったので敬遠していました。が、人生4回目のおすすめに遭遇し、今はちょっと精神的に余裕があるので読むことに。結果、とても面白かったです。

まず、私は文体がだめだと3ページで読むのを止めてしまうのですが、最初読んだところでこれは一気に最後までいける、と確信しました。これは好みの問題だけども新版翻訳者様様。結局2時間半くらいで読み切ったと思う。

何が面白かったのかというと、よく言われているらしい通り、書かれてある被収容者体験をした己自身と、その体験を分析する科学者たる自分との間の理性的かつ絶妙な距離の取り方がいちばんにある。この距離が離れているからこそ、この本はただ戦争の恐ろしさを伝える生々しい体験記にとどまらないのだし、この距離が離れすぎていないからこそ、筆者の語る人間の尊厳と愛、また人の生きる意味があの凄惨な体験から直結していることを示し、それでいて筆者は他のどんな人間とも同じ唯のひとりの人間なのだということ、ただのひとりの人間があれほどの人間性を獲得するに至った事実にただ感動することができる。

人間性とは何か、ということがこの本のメインテーマであると思うけども、私にとって本書のクライマックスは、生きる意味について筆者が語る場面。人生の意味を人は問うが、そうではなく反対に、生きていることが絶えず生きる意味の答えを突きつけられ続けることなのであって、人は運命に生きる意味を問われる客体であり、行動によって生きる意味を答えていくものである、というもの。運命に翻弄されるしかなかった大勢のちいさな人間たち、そのなかで精神を荒廃させた者、あるいは内面性を深めた者、それぞれ多くを見送った末の結論。昔、人生に意味はなく、人生は自分で意味あるものにしていくものである、ということを言った人がいて、なんとなく感動はして今も覚えているけれど、似ているなと思った。自分の人生に意味があったかどうかは、最期に自分でイエスと言い切れるかどうかにかかっている、ということですね。

 

それにしても、人は何かするのに意味がないといやだなんて、窮屈なものですねえ。いっそ動物になりたいとこれまで何度も思ったことを思い出しました。動物も意味ないことはしないでしょうが・・